五十にして天命を知る、と、人間五十年、下天の内をくらぶれば。

ぼく。という精神が身体という乗り物を操縦している。もしいまの身体が動かなくなったら、きっと新しい身体に移動するんだろう。なんとなく、そんな死生観をもっている。久しぶりに帰郷して、一年がかりでやっている仕事があって、この仕事自体はきっとまだまだ続く、たぶん。この仕事を一緒にやらせてもらっている方とはたまに、といってもまだ数回くらいしか飲みに行ったことがないけど、飲んでいると昼間には聞けなかった本音を聞けることがある。

昼間の彼もかなり本音で活動しているのだろう。そして率直さがゆえに敵も多いんだろうなと思うこともある。いや、いないかもしれない。実際のところは知らないから。ただ、ふとそういうことを想像したときに、まったく娑婆は難しいものだなぁとおもった。
 
そもそも人間関係だけでも幾重ものしがらみがある。そして事実を指摘すれば、生意気だと言われることもある。あぁ、そうかと黙すれば、了見がないやつだと言われる。仕事のスタイル、姿勢について率直に話し合える相手はなかなか見つからないものだ。ぼくはさいわい東京時代にひとりだけ、そういった相手がいたのだけれど、失ってしまった。

Pexels / Pixabay

ぼく。という精神がコントロールする身体の外側に意識を置くことで、客観視しようと試みる。40を超えてから体力の落ち方が想像と違って、一気に下降した。おかげでうまく身体が動かないときや、凝りすぎて手足が痺れるときもある。余分な知識だけはついてきたから、つい余計なことを喋る自分は相変わらずいる。そして「あ、よけいなお世話をいましゃべっているな」とか「あ、思うように身体がうごいていないわ」いうことを、外側からみている自分は理解しつつも、内なる自分を止められないことを、身体の外側から見渡していると、思わず顔を隠したくなる。
 
そういうときって帰宅したあと自己嫌悪に陥るよねえ。人生はパーティだ。人生は旅だ。人生は壮大な暇つぶしだ。人生は答えない道を歩くようなものだ。
 
どれも確かにそんな気がする。明日からもまたぼくは、ぼく。という精神がコントロールする身体を動かしながら仕事に向かうんだろうな、そして幾つかの喜びとちょっと多めの反省をかかえて1日を過ごしていくんだろう。こんなことを考えていると中二病っていつまでも続くものだなぁと思うよ。

youli1 / Pixabay

 
あと5年で天命を知るのかなあ?天命を知ったころには自由を手に入れたいよね。”好き放題やる”とかって意味じゃなくて、本当のいみでの自由。自由を獲得するためには、いま何をなすべきかとかどういう先手をうっておかなきゃいけないのかとか、色々考えてこれからの5年間を動いていかなきゃいけない。こういうことを考えて行動することが「布石をうつ」ってことですよね。そうかんがえると結構ハードルが高そう。だっていままでの人生で、「キャリアプラン」通りににいったことなんて、ひとつもないのだもの。(だからプランドハップンスタンスセオリーが重要だろうと考えているけど、それはまた今度)。

だけどまだもう少し時間はあるよね。
 

Hans / Pixabay

五十にして天命を知る、っていうとその先まだ人生続きそうじゃない?これがさ、人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度(ひとたび)生(しょう)を得て、滅せぬ者のあるべきか。っていわれると、あと5年かぁとか思うけど。そして、五十にして天命を知るのつぎは、「六十にして耳順う」ってことは、それまで素直に耳を傾けることができるのは少ないのだゾ、と戒めておけな、ちょっとは無駄口を叩かなく、そして謙虚な自分になれるのでしょうか。

 

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