それでもぼくは、書いていく

今の時代、文章かけた方がいいですよ」「社長の想いは、自分が語り書くからこと伝わるんです」仕事柄、こういうことを力説することが時折ある。が、その言っている当人は文章を書くことがとても苦手だ。

「苦手だからこそ、書くことで上達するんです」自らに言い聞かせるように、他人に話すこともある。(ちなみにこう言い続けて15年、未だに絶対に書いてくれない社長が1人だけいる)

ぼくは子供のころ、本さえあれば大人しかったらしい。マンガも大好きだったし、学研のひみつシリーズ。伝記もの。少年探偵団シリーズ、ファーブル昆虫記やシートン動物記。SFものというように学校の図書館にある本は結構よんでいた。図書館が好きで図書係に立候補したくらいだ。現実は教室に溜まった本を運ぶだけの係だったけど。

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ミュージシャンになろうとしていたときも「作詞もできなきゃな(印税入らないし)」と企んで、ライティングをしていたこともある。だいたい小学生のころ作文なんて得意だったし、夏休みの読書感想文なんて7月が終わる前に完成させていた。たしか「南極物語」を題材にした感想文でなんだかの賞をもらった記憶もある。

さて気づいたと思うけど、ここまでの話はだいたい小学生時代の話だ。ならばさぞかし文を書くことに抵抗なく育ち、いまもたやすく文章を書けるのだろうと思われそうだ。実際に「このサービスの案内文、書いておいてよ」なんてかるくパシリ的に頼まれたりすることもある。

とんでもない、いまは文章を書く仕事がいちばん苦痛だ。本当に言いたいことがうまく書けない。どういう言葉を選ぶことで、自分の気持ちをうまく伝えることができるのかさっぱりわからない。じゃあと思いつくままに書くと、こんどは冗長化した文章ができあがる。

「ここの副詞が」「この体言止めの意味って?」などど問われても、体系立てて国語を習ったことがないから、なにを言われているのやらさっぱりわからない。だってそこにでてくる「コトバ」の意味がわからないんだから。結局伝えたいことが伝わらないなあと自分でもおもった状態で原稿をみせると、10のうち7から8はダメだしで戻ってくる。ごくたまに半分くらいにおさまることもあるけどね。
 

geralt / Pixabay

じゃあなんで、ぼくが書くんだろうと考えることもある。それでもメールやチャット、サポート、意思疎通につかう各種ツール。口頭以外はすべてテキストだ。どれだけうまく喋れても、ぼくらはテキストをうまく書けないと記録を残せないし、あとから来た人に意思をつたえることができない。そういう意味ではTwtterの140文字ってのは適度な訓練ツールでいいんですよね。

話を戻して。だからNGを出されても書き続けるしかない。書き続けることで、この苦難を乗り越えるしかないのだ。こうして無理矢理にでもブログにすれば、通りすがりの人の目にも止まるだろうから、すこしは文章の書き方を意識するにちがいない、と思って書いている。SNSに一時的に長文を書くこともあったけど、最近では30文字くらい書くと「これは、ブログにしたほうがいいな」と思い直してみたりする。

つまり強制的な自己鍛錬というワークを課しているわけだ。いつしか文章がうまくなり、誰かに声をかけてもらえるようになる日が来たとしたら、それは実践がセンスを磨いた結果ということになるであろう。だいたいいまFAXだろうかメールマガジンだろうが、レポートだろかテキストを書かない日はないのだし。

しかし鍛錬というものでは、書いても書いても楽しくない。理由は自分の下手さと向き合うという苦しみの中に、わざわざ自ら飛び込まなければならないからだ。これをきっと『苦行』というのだろう。そしてなにが悔しいかといえば、そういう思いを5年近く続けてきたというのに、一向に上達した気配を自分が感じることもなく、他人から「いいねぇ」と言われることもないため、上達したのかしていないのかサッパリわからない日々が続いているということだ。

しかも「上達している」としても、なぜどこかどうやって上達したのか、がわかっていないから再現性がきっとないのだろう。ただごくたまに、スラっと書けることもある。そういう時は心の内もスッキリした気になる。

「ここの文字遣いがちがう」「。。。はい」とスッキリした気になっているだけで、現実はこうしたものだ。それでもぼくは、書いていく。今日も明日も明後日も(いや、毎日というのはウソだけど)。今後の課題をあげるなら、書くと決めた日には書くこと。話すように書くこと。書くように話すこと、かな。

 

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